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せん長の「ぽんぽこコラム」
「環境の構成」と「方法としての教師」
「環境の構成」とは、子供が興味・関心のある環境に働き掛けて遊ぶことで、(子供本人は期せずして結果的にもしくは近い将来に)自身の発達の課題を自分で乗り越えるための意味のある状況づくりをする教師の営みであると私は解釈しています。すなわち、ものを配置するだけにとどまらず、時間や雰囲気等が相互に関連し、周囲の人(友達・教師など)との関係性の中で環境が意味(教育的価値)をもつことに教師は意識を向ける必要があるということです。さらに、遊びの展開により環境は再構成され、常に動的な遊びを支える役割も忘れてはなりません。教師が望んでいる活動を引き出すための材料や用具を用意し、幼児の活動を誘発する“コーナー保育”に代表される「環境構成」とは明らかに違うものなのです。子供がエージェンシーを発揮し、自らの世界を広げていくためには、「環境の構成」の考え方が必要になってきます。
環境の構成が有効に機能するためには、教師の在り方が重要になってくると考えます。我々幼児教育センターでは、子供が環境を通して自ら主体的に学んでいくために欠かせない存在である教師を「方法としての教師」1)2)と呼ぶことにしました。「方法としての教師」とは、子供がねらいに向かうための手立てとしての教師の在り方であり、教育の手段としての教師の存在とも言えます。いくら物的環境を整えても、それらと子供を結びつける意図的な教師の動きが不可欠であり、具体的には「子供の活動の意味を理解する」「子供の目線に立つ」「思いに共感し共鳴する」「学ぶ姿や関わる姿のモデルになる」「必要な人に対して必要なときに必要な援助を行う」「子供が精神的に安定するためのよりどころ」などの役割が重要であると考えます。このような教師の存在により子供は、「安心」と「自由感」を得て主体性を発揮していくでしょう。
かねてより研修等でお伝えしてきたことですが、「○○遊び」をさせることが重要なのではなく、子供がどのようなことをして遊んでいても、その中に教師が教育的価値を見いだすことが重要なのです。これが環境を通して行う教育であり、遊びを通した総合的な学びなのです。
「環境の構成」は、小学校以降の教育でも有効に働くと考えます。(中村 崇)
1)中村 崇(2016)幼児の運動発達を促す教師の役割.群馬大学教育実践研究 第33号 pp.227-235
2)大島 崇・中村 崇・太田紀子(2025)子供に内在する非認知能力の発揮及び伸長を促す架け橋期の教育.群馬県総合教育センター
参考資料:森上史朗・柏女霊峰編(2011)保育用語辞典[第6版].ミネルヴァ書房:京都.
初出:ぐんしよう №202 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会
一部を改稿して掲載
顔がぬれて ちからがでない
Aちゃんは、担任している私にたくさん話をします。しかし、どうもおとな(私)に頼りがちな気がします。
「ねえ、せんせい。これつくって」(折り紙の本をもってきて)
「せんせい。トンネル掘って」(砂場で山を作っていたとき)
ある日、私はAちゃんの「ねえ、せんせい。ウサギの部屋作って」に対して、「顔がぬれて、ちからがでない」と応答しました。Aちゃんは、「アンパンマンかぁ~‼」(笑)・(#怒)と、にやけながら怒り口調で言葉を返し、自分でウサギの部屋を作り始めました。私は、少したってから「私にお手伝いできることはありますか?」とAちゃんに言葉を掛けると、Aちゃんは「じゃあ、ここおさえといて」と言いました。
Aちゃんの遊び(生活)について、Aちゃんが主体になった瞬間でした。(中村 崇)
新しい感覚を味わう
ビニールプールからあふれ出た水が、園庭を流れていく。私は、乾季の大地に突如押し寄せるように静かだがあたかも命が宿ったような水の流れに心動かされ、「おもしろいなぁ」との思いで見ていた。誰かと共有したくて、近くを通りかかった3歳児のA児に「あっ」と言い、指をさしながら注意を向けた。
これがA児との出会いである。
A児は、乾いた地面を進む水を見て、そして私の顔を見たかと思うと、急いで砂場へ走って行き、タライに汲んである水をコップですくい再び私のところに戻ってきた。乾いた地面を進む水の最先端に、そのコップの水を注いだ。そして私の顔を見て「ニヤリ」とした。私が「おう」と声を上げながら、「そうそう、この進む水、おもしろいよね」という思いで笑顔を返すと、もう一度砂場から水を持ってきて同じようにした。
その後A児は砂場で、既に誰かによって作られていた山の周りに溝を掘り水を流すことを30分以上続けた。A児なりに、様々な試みをしているように見えた。その間、時折、近くにいる私の顔を見たり、笑顔を向けたり、持っている道具を見せたりしていた。私も、目を大きくしたり、「わあ」と感嘆の声を上げたりしながら応答していた。
園庭南側にある3m弱の樹木間には、2本のロープがピンと張ってある。1本は地上30cmくらいのところに、そしてもう一本は地上1mくらいのところに張ってある。まるで弾力性のある鉄棒のようだ。
裸足のA児はI先生の手を引き、この2本のロープのところまで招いた。
「見ててね」という表情で下のロープに乗り、上のロープを片逆手(右が逆手・左が順手)で鉄棒のように握った。右から片足ずつ上のロープに裸足の指を掛け、「蹴上がり」に向かう過程の体を「く」の字に曲げ足先を鉄棒に近づけるような姿勢を数秒間、維持した。
見ていたI先生は、「すごい、すごい技、さっきとちょっと違ったねえ」と称えた。I先生は「A児と同じ」という思いからだろうか、A児の顔を見ながら片足を上げて伸ばし、「サルみたい」と伝える。A児の表情が更に緩み、白い歯を見せながら、もう一度する。今度は右足はロープに掛かったが、左足はうまく掛からず、地面へ着地する。
A児が振り返るとI先生は他の幼児に関わっていて見ていないことに気付く。すぐにI先生のところに行き、他の幼児が持っている虫かごをI先生に促されながら覗くが、手はI先生の腕を取り、自分のところに再び来るよう促す動きをする。しかし、虫が小さいという話題になり、A児も話を合わせて両手をパチパチ打ちながら「ちっちゃいねぇ、あおむし」と言い、近くにいる私の顔を見る。そして、再びロープに戻るも、振り返り、「もうちょっと、このぐらいだった」とI先生と他の幼児の会話に呼応するように左手で小さい虫を表現し、更にI先生の応答を受けながら下のロープに乗り再び「『く』の字の姿勢」をとる。しっかり両足が掛かった状態で、身体が2往復、揺れる。「すごい、ブラブラだ」「さっきと、また違ったね」とI先生が言葉を掛ける。
B児がA児の右隣にやってきて下のロープに乗り、上のロープを首の後ろで担ぐようにして順手で握る。そして、横目でA児のすることを見る。
A児は、今度は逆手でロープを握り、「『く』の字の姿勢」に臨む。右足の指はしっかりロープに掛かるが、左足がうまく掛からず、しかし左足を下げずに高い位置をキープしながらなんとか引っ掛けようとする。身体は先程のように揺れている。前へ揺れるときに、左足をロープに掛けようとする。左足は左手の外側(左側)にいき、一瞬ロープに左足が触れ地面に下りる。
I先生が、二人がロープに乗っているのを見て、「AちゃんとBちゃん(二人とも同じ名前:○○ちゃん)、二人○○ちゃん」とその様子を他の幼児に伝えている。
B児もA児と同じようにしようと試みる。B児は順手で、左足をまずロープに掛けようとするが、うまくいかず、ぶら下がった状態になりつつ膝を上げて地面に足がつかない姿勢を少し揺れながらキープする。
A児は、ロープにぶら下がっているB児を見て、「よし、やるぞ」という感じで、逆手でチャレンジするがうまくいかず、地面に下りる。もう一度チャレンジすると、今度は右足がしっかりロープに掛かり、続いて左足も掛け、身体が揺れながら姿勢をキープする。
B児はそれを横目で見た瞬間、ロープから下りて、靴を脱ぎ、靴下を脱いで裸足になる。
私は、二人の姿を背後から見ていたが、ここで二人の正面に移動した。するとA児は地面に立ちながら、上のロープを逆手で握り、私の顔を見ながら歯を食いしばって強く引いたり押したりを繰り返す。横にいるI先生の顔も見る。そして、下のロープに乗り、挑戦する。左足が掛からないうちに右足に力が入ったままロープから外れて、勢いよくまるで鉄棒技「グライダー」の着地のようになる。びっくりした表情でI先生を見てから私を見る。そしてすぐにまた挑戦する。右足が掛からず、ゆっくり着地して、すぐにI先生を見る。
裸足になったB児はロープに戻って、チャレンジすると「『く』の字の姿勢」ができた。それを見ていたI先生は「できた、できた、Aちゃんと同じ、足も同じ」と言葉を掛ける。
その時、C児がI先生の傍らに来たが、A児がロープを握っている位置にも非常に近く、その圧からか、A児はうまくロープを捉えられず手が離れ、下のロープから落ちた。慌てて下のロープに跳び乗り、ロープを握り直すと、順手になった。その握りのまま、「『く』の字の姿勢」に臨み、成功する。しかし今までのA児の姿と少し違う。肩が後方に傾き、首も後方へ投げ出され、後ろの景色が見えるような状況で、力みがなく、リラックスしているように見える。A児は地面に下りた後、満足げに手をポンポンと叩き、再びチャレンジする。まず揺れているロープを片逆手で安定させるように握り、その後順手に持ち替えて、「『く』の字の姿勢」を成功させた。快さを感じているような清々しい表情であった。
- A児との出会いの情況、砂場でA児を見守る私の姿勢(構えといってもよい)により、かなり短時間にA児と信頼と呼べる関係が構築された。
- 私の応答は、言葉のやり取りよりも、「おもしろい‼」「不思議‼」という感覚が振動しあって伝わり合っていくという関わり。
- 深い信頼関係にあるI先生を支えに、そして「先程会ったばかりだけど自分をよく見ていて、おもしろがっているおじさん」の私を支えに、A児は砂場での長時間に及ぶ様々な試み、ロープに関わっての試行錯誤を行っている。
- 先生の言葉「さっきとちょっと違ったねえ」「すごい、ブラブラだ」「さっきと、また違ったね」等は、前の自分との比較、身体の状況を表し、A児に自身の運動の経過を意識化させている。また、「AちゃんとBちゃん(二人とも同じ名前:○○ちゃん)、二人○○ちゃん」は、他者(B児)の存在を顕在化させている。
- 片逆手だと揺れているロープを安定させられること、逆手だと足を掛けるロープに集中できること、そして逆手だと肩から首にかけても強く力が掛かり、それが身体全体にも影響を及ぼすこと、順手だと肩や首の力が抜け、肩から首が下へ向くので両足が上がりやすいこと、などを感覚として味わったのだろうか?
- ロープに関わっていくときに、最初は「先生に見てほしい」から中盤では「B児を意識して」、最後は「『く』の字の姿勢」の快さを感じて、というふうに内面に変化が起きているのではないか。 保育者がおもしろがって見ていてくれるという安心感(信頼関係)があると、子供は自ら挑戦していく。見ていてくれる保育者を踏み台(足場)にして、自分のやりたい世界に進んでいく。
- 困ったときにいつも助けてくれる先生ももちろん大切だが、「おもしろい世界を一緒に見て共感する」ことの中で、信頼関係を築いていくことも大切。
- 私は「誰かと共有したくて」と表現した。大人からも発信する。「先生が感じているおもしろい世界を一緒に見て‼」という思いである。今、もしかしたら足りないかと思う保育者の働き掛けが、ここにあるように思う。絵本を選ぶときも、遊びを創っていくときも、世の中にはこんなおもしろい世界があるんだよと、子供と共有したくて「もの」を出したり、言葉を掛けたりしても、時にはよいのではないか。
幼児の身体を動かす姿から非認知的な能力を考える
幼稚園等の教育要領・小学校学習指導要領等では、「学びに向かう力」が重要といわれている。これは、ジェームズ・ヘックマンが教育経済学の立場から提唱した「非認知的な能力」であり、社会情動的スキルとも呼ばれているものである。ここでは、幼児(3歳児の12月)の身体を動かして遊ぶ場面から、そこで発揮されている非認知的な能力について考察していきたい。
事例(3歳児12月)
A児は、近くにあった段ボール積み木を鉄棒の下に持ってきて、その上に乗った。「先生、見てて」と言いながら両手で鉄棒を持ち、段ボール積み木の上でジャンプを繰り返していた。私(教師)は「わぁ、ポコポコ、何回もすごいジャンプだ」と応答する。A児と私のやりとりに誘われてか、B児は、並べて置いてある段ボール積み木の上を慎重に歩いて来た。端の積み木まで来ると、1mくらい離れているA児のいる鉄棒のところに向かって、膝を曲げてから両手を振り上げ身体全体を伸ばしながら思い切り跳んだ。
A児の隣に来たB児は、A児のする行為をたいへん短い時間ではあるが凝視して、同じように鉄棒を両手で持ちながらジャンプを繰り返す。
A児は積み木の端に足を着いたためバランスを崩して積み木が転がり、身体が勢いよく滑り落ちるように移動した。そして、積み木に座るような体勢でとまった。驚きと眩暈感覚的な快さが入り交じったような表情で一瞬動きが止まる。B児もこの様子を見ていて、A児の情動を一瞬にして受け取ったように、目を大きくして動きを止めながらも口元は緩んでいる表情を見せる。A児は同じ感覚が味わいたいようで、何度もジャンプして積み木に着地する足の位置を変えて試みるが、納得できない表情である。積み木の位置を後方にずらし、更に何度も繰り返していた。
A児やB児の様子を見ていた私の前をわざと横切るようにC児が走ってきた。私は「おおっ、C児くんが来た」と言う。C児は、並べて置いてある積み木の上を渡りジャンプして着地した。それをまねしてB児も同じようにした。次にC児は、積み木の上で片足跳びをした。B児はそれをじっと見ていた。B児は積み木の上に乗るが、片足跳びはせずに歩き、1m近くの大きなジャンプをして着地した。その後、地面で片足跳びを始めた。
10月以降、身体を思い切り動かして遊ぶ楽しさを味わうように、運動会で経験した遊びが実現できる遊具や新しい遊具を出すなど、園庭の環境の構成を工夫してきた。段ボール積み木や、保育室前に置いた移動式の鉄棒もその一例である。このような環境に関わって遊ぶ3人の幼児の姿をとらえた。
A児は、友達には関心をもちながらも自分から関わる姿は多くない幼児である。身体を動かす遊びは好きである。
B児は、入園当初は不安な気持ちと運動経験の不足から、自ら環境に関わって遊ぶ姿が見られず教師の後をついて過ごすことが多かった。幼稚園で様々な刺激を受けて、興味をもった友達や遊具、遊びに関わっていくようになってきた時期である。
C児は、自分のしたい遊びをのびのびと楽しみ、同じ場で一緒になった友達とも関わって遊んでいく幼児である。しかし、自分がしたいことが明確にあるので、ひとりで黙々と遊ぶ姿も多く見られる。身体を動かす遊びは好きで、多様な動きを体験している。
A児は、「飛び上がり」をするには高いと思ったのだろう、近くにあった段ボール積み木に乗ることを思いつき、すぐに鉄棒の下に持ってきた。段ボール積み木に上ってみると自分の体重で沈むことを感じてジャンプをしだしたのだろう。段ボール積み木の中身は空のペットボトルなので、ジャンプするたびに弾力性を感じていると思われる。教師に見てもらい認めてもらうことで得られる安心感や、ジャンプするたびに積み木の弾力を通して感じられる身体が揺れる心地よさなどを味わっている。
B児の慎重に積み木の上を歩く姿と、思い切り遠くへ跳ぼうとする姿には、内面の違いが感じられる。不慣れで不安定な段ボール積み木の上を落ちないように歩くということへの挑戦と、遠くに跳ぶ動きが洗練されていることから、今までに何度も体験しているであろう遠くまでジャンプするということへの自信である。B児がその後、目にしたA児の動きはB児を刺激し、興味・関心をもってまねをしたくなる対象になったと考えられる。B児は、よく見て(観察)、A児の動きの感じを運動メロディー(動き方や力の入れ方の連続的なまとまり)としてまるごと知覚し模倣している。
A児がバランスを崩したときに偶然感じた眩暈感覚のようなものと考えられる快さは、もう一度同じ感覚が味わいたくて何度も試す行為と意欲につながった。そして、A児の動きを至近距離で目の当たりにしたB児は、A児の一連の動きや表情からA児が味わった快さを受け取ったのだろう。だから、口元が緩んだ表情をしていたと考えられる。A児は何度も試す中で、積み木の位置をずらすということも行っている。
C児は、教師の前をわざと横切ってきたことから考えると、A児やB児を見守っている教師に自分の存在を知らせたいと思っていたのだろうと考えられる。だから、「ジャンプするから見ててね」「片足跳びもするから見ててね」という思いで遊び始めたのだろう。これは自己の存在意義を認めてもらいたいという思いであり、自己肯定感につながるものと考えられる。B児は、そのようなC児の動きにも興味をもち、よく見て(観察)、動きの感じをとらえて(運動共感)、模倣した。しかし、C児のように積み木の上では、片足跳びをしていない。すぐにまねをしないで、大きなジャンプをしている。これは、自信をもっているジャンプをすることで新しいことへ挑戦する気持ちを整えたのではないだろうか。
このような遊びが生まれた要因の一つに段ボール積み木の存在が考えられる。また、教師の存在も要因の一つだろう。教師に「見せたい」「認めてほしい」と幼児が感じるような信頼関係の構築と、幼児の行為を受容するように見守る教師の有り様が大切なのだろう。(中村 崇)
初出:つぽす(2018) 一部を改稿して掲載
ようかい体験
「ようかい体験」と聞くと、「ゲゲゲ」ですか?と思われるかもしれませんね。しかし、本稿で扱うのは「溶解体験」です。
現代の多くの人々は、有用性(役に立つか否か)を原理としての世界で生きているのではないでしょうか。しかし、それだけだと「今」の時間は未来の目的を実現させるための手段とみなされて、「今」はそれ自体では価値がなくなるように思われます。そこで溶解体験に着目したいと考えます。対象に見入ったり、聴き入ったりすることや心身で感じることを通して、自分と対象との境界が溶けたようになり、混然一体とすることを溶解体験と言います。「遊び込む」「没頭」「没入」「熱中」「ゾーンに入る」などと表現されることもあります。また「驚嘆」「畏敬の念」「センス・オブ・ワンダー」も溶解体験に深く関係するでしょう。溶解体験は、明確に意識して言語化することが困難な体験です。すなわち、既知の世界を破る認識不可能な「非知」の体験といえます。意味として定着できないからこそ、世界の新たな意味が生成されるのです。何かの役に立つことではなく、有用性にとらわれないことで可能になる心情の生成です。このような体験を深めるとき、不思議でおもしろく、魅力的で畏れるほど美しいこの世界と一体なのだという感覚が生成されるのでしょう。これは「自己の尊厳」を生み出す貴重な感覚なのです。
ここで私が担任をした3歳児A児の事例を紹介します。A児は、段ボール積み木(中に空のペットボトルが6本入っている段ボール箱)を鉄棒の下に持ってきて、その上に乗りました。両手で鉄棒を持ち、段ボール積み木の上でジャンプを繰り返していましたが、積み木の端に足を着いたためバランスを崩して積み木が転がり、身体が勢いよく滑り落ちるように移動し、積み木に座るような体勢になりました。驚きと眩暈感覚的な快さが入り交じったような表情で一瞬A児の動きが止まります。A児は同じ感覚が味わいたいようで、何度もジャンプして積み木に着地する足の位置を変えたり、積み木の位置をずらしたりしていました。何とも言えない「あの感覚」にまた出会おうと試みを繰り返していたのです。
私は保育者の皆様に、有用性としての経験のほかに、溶解体験にも着目して子供と一緒に遊ぶことを提案します。(中村 崇)
参考資料
矢野智司(1998)非知の体験としての身体運動~生成の教育人間学からの試論~.体育の科学.Vol.48.10月号
矢野智司(2006)意味が躍動する生とは何か―遊ぶ子どもの人間学.世織書房
川田 学(2019)保育的発達論のはじまり.ひとなる書房
初出:ぐんしよう №201 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会
「だろう」「かもしれない」問題
30数年前の私は幼児教育専攻の学生で、教育実習での週案・日案作成に苦しめられていました。特に私を悩ませたのは、「予想される幼児の姿」の記述です。予想される姿ですから、文末は「~するだろう」「~するかもしれない」となります。「だろう」「だろう」ばかりが重なると読みにくいから、時には「かもしれない」と書いていました。とても未熟で、短絡的でした。
保育者になり、直感的・感覚的に書き分けるようにはなりましたが、ある日、中学校の教員に「指導案の『だろう・かもしれない』の違いはなに?」と聞かれ、明確に回答できませんでした。そこからやっと、「だろう」「かもしれない」問題に向き合う日々が始まったのです。保育者生活で掴んだ論理は次のとおりです。「だろう」と記述する予想される姿は、前週・前日の姿を基に、環境に関わって遊ぶ幼児の姿を推測したものです。逆に言えば、この「だろう」の姿が表れるような環境の構成を行うことが大切だと言えます。「かもしれない」と記述する姿は、もしかすると発展して表れるかもしれない姿を念頭に置いたものです。この「かもしれない」に対応する保育者の行為が「リソース(引き出し)」であり、「環境の再構成」として整理されることと考えます。しかし、時に「かもしれない」を超越する、予想が裏切られることが展開されます。困りますよね。いや、これこそが、「おもしろい」のです。佐伯1)は、保育者の何ごとも解釈してしまう心には「おもしろさ」は生まれず、むしろ「おもしろさ」が生じたときは「解釈」が吹き飛ぶと言っています。保育の、幼児の「おもしろさ」は、保育者の「かもしれない」を超えるところにあるのです。私たち保育者は、それを受け入れる度量を備え、「おもしろい」を感じたいですね。(中村 崇)
1)「ビデオによるリフレクション入門 実践の多義早発性を拓く」佐伯胖・刑部育子・苅宿俊文2018東京大学出版会
初出:ぐんしよう №200 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会 本稿は、一部改稿したもの
ジャンケンで決める
「ジャンケンでしか決めらんないん?(決められないの?)」
「ほんとにそれでいいんかい?(本当にそれでいいの?)」
これは私が幼稚園で担任をしていたとき、“もめ事”の際に幼児に掛けた言葉です。幼児が自分たちで“もめ事”の解決を図ろうとしているのだから、なぜそのようなことを言うのかなあ、自分たちで生活していこうとする素晴らしい姿ではないか、などと御批判もありそうです。
「ジャンケン」は、ロジェ・カイヨワの言う「アレア(運や賭けを伴う遊び)」であり、偶然性の内に面白さがあります。「あっち向いてホイ」にはなくてはならないものですし、「かくれんぼ」「鬼ごっこ」の鬼を決める際にもたいへん有効な手段です。サッカーのゲーム前のコイントスのように、異議を言う者はいないと思います。
“もめ事”は、幼児の日常の中にあります。意見の食い違い、役割の決定、ものの取り合い、順番・・・等、これを「ジャンケン」で決めることが、平和的で協働的な社会の実現を目指す未来の担い手としての子供たちに積極的に経験してほしいことなのかと、私は自身に問い続けています。
大学に勤務していた恩師と上述のような「ジャンケン」にまつわる私の実践と課題意識について話をしているなかで、次のように伺ったことがあります。「学生は、研究室・ゼミでの役割などをジャンケンで決めようとする。一緒に過ごす仲間であるからこそ、互いの特性やサポートの体制、挑戦する意欲等を念頭に、ジャンケンではない方法を探ってほしいと、その都度提案してきたが・・・」という話です。それぞれが背負っている背景や、そこに至る文脈を受けて進んでいく効率的ではない人間社会の意味について再考するきっかけになったことを記憶しています。
もう20年も前になりますが、小学校の生活科の授業を参観したことがあります。グループで考えたゲーム(この授業では「遊び」と言っていたが、敢えて「ゲーム」と表現する。その意図は、前回の「ぽんぽこコラム」を参照)を紹介する授業でした。「タイヤのある場所」をめぐって二つのグループによる「どちらが先に使うか」についての“もめ事”が起こりました。近くにいた先生は「ジャンケンしなさい」と言ったのです。子供たちが、自他の思いや状況に気付き、なんとか前に進むために折り合いをつけたり、アイデアを出し合ったりする貴重な学びの時が失われた瞬間でした。
次に幼稚園で体験したエピソードを記します。5歳児のAちゃんとBちゃんは、同じ図柄のチラシで紙飛行機を作り園庭で飛ばしていました。一つの紙飛行機が水溜まりに着陸し泥で汚れました。Aちゃんは近くに着陸した汚れていない紙飛行機を自分のものだと言います。Bちゃんはびっくりした表情でAちゃんが主張する汚れていない紙飛行機が自分が飛ばしたものだと言います。二人の会話は言い争いに発展しました。私はそこに2時間ほど関わることになりました。私が留意したことは二つです。一つは、時間が長くなるとBちゃんが諦めて、「もういいよ」と言って去ろうとするのを引き留めること。もう一つは、このままだと互いに相手は自分のことをどのように思って今後の友達関係を続けることになるのだろう?という問い掛けを様々なアプローチで伝えること。最終的には2時間後、Aちゃんは、泥で汚れたのが自分の紙飛行機であることを話し、私も含めてみんな自然に涙があふれ出し、三人で肩を抱き合いました。
ジャンケンに委ねるのではなく、大人が決めるのでもなく、子供が自分で、自分たちで、「どうにか」する。子供と共に悩みながら、この過程の中で何が経験され、何が育ちゆくのかを理解していくことが大事なのではないかと思うのです。子供が「どうにか」しようと対象に向かっていく状況づくりは、子供が自分自身の世界を広げようとすることにつながり、それこそが質の高い教育なのではないかと、「ジャンケン」を通して思いをめぐらせた話です。(中村 崇)
初出:ぐんま幼児教育センターだより 第44号
「遊び」-「遊ぶ」をめぐる教師の視点と“構え”
みなさんは、子供の「遊び」をどのように捉えていますか。仲間と一緒に笑顔で活動していることを、「遊び」をしていると捉えますか。この「遊びをしている」と「遊ぶ」に違いはあるのでしょうか。本稿は、子供の育ちを支える教師の指導の在り方について、「遊び」-「遊ぶ」をめぐる教師の視点と“構え”という視座から考えていきたいと思います。
「遊び」については、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」やロジェ・カイヨワの「遊びと人間」をはじめ、様々な考察が行われてきました。私が本稿で取り上げるのは、杉原隆の論考です。杉原は「生涯スポーツの心理学」(2011)にて、内発的に動機づけられた活動こそが「遊び」であるとし、「遊び」を連続体として捉えることを提言しています。人間は、一つの動機だけで活動することは少ないと考えられますので、遊びを内発的動機かそうでないか(外発的動機)という二分法で捉えることは困難であるわけです。そこで、内発的動機づけを「遊び要素」、外発的動機づけを「非遊び要素」と考え、内発的動機づけが強いほど遊び的な活動であり、逆に外発的動機づけが強くなるほど遊びではなくなるとしたのです。例えば、友達と一緒にやりたい(親和動機)、先生に褒められたい(承認動機)、その活動の面白さに惹かれている(内発的動機)などのように同時に複数の動機をもっている場合、友達と一緒にやりたいとか先生に褒められたいとの思いが強い場合は非遊び要素が高く、その活動の魅力や面白さに惹き付けられている場合は遊び要素が高いということになります。このように、同じ活動をしていても、遊びとしての活動という場合もあれば、まったく遊びとは言えない活動もあることになるわけです。このような「遊び」の捉えを見ていくと、私たち教師は前述の意味での「遊び」の発生を支え、時間的・空間的・人的な保障をしていくことがその役割と考えられます。
しかし、子供と共に過ごす中で意識を向ける必要があるのは、むしろ「遊ぶ」ではないのかという考えにも至るのです。「遊ぶ」という行為の中で子供は何を経験し、何が育ちつつあるのかを読み取って、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を念頭に置きつつ、子供理解に基づく一人一人の発達の課題に子供自身が向かっていく(乗り越えていく)状況をつくることが、本質的な教育の意味(教師の役割)と考えるのです。この教育実践には、幼児期の教育に携わる教師(保育者)の高度なファシリテーションスキルが有効に働いていると考えられます。ファシリテーションスキルには、基本的な四つのスキル「場をデザインするスキル」「対人関係のスキル」「構造化のスキル」「合意形成のスキル」があると言われます。「場をデザインするスキル」は、「環境の構成」という考え方、特に「状況づくり」が深く関係しています。「対人関係のスキル」は、安心感や信頼関係、そして「構造化のスキル」「合意形成のスキル」は子供と一緒に悩むという姿勢、すなわち子供の主体性や思考を促す“構え”に深く関係しています。
このような教師の視点と“構え”は、今日的な教育課題である「STEAM教育」や「非認知能力(社会情動的スキル)の育成」等を乗り越えるヒントにもなり得ると考えられます。幼児教育施設に所属の皆様は、「〇〇遊び」という“かたち”ではなく、「遊ぶ」という行為に内在する教育的価値に一層深く意識を向けてみてはいかがでしょうか。小・中・高・特別支援学校に所属の皆様は、幼児期の教育の理解を進めてみてはいかがでしょうか。(中村 崇)
初出:ぐんま幼児教育センターだより 第41号
次回が楽しみになる園内研修
みなさんは、園内研修についてどのようなイメージをもっていますか?ある報告によると「お腹が痛くなる」「自分の意見に反論されたらどうしよう」などが挙げられていました。そこで今回は、「次回が楽しみになる園内研修」について考えていきたいと思います。
まず、確認しておきたいのは、園内研修を行う目的です。園の置かれてる状況により様々な目的が考えられますが、大きな目的は質の高い保育の実現と言えるのではないでしょうか。質の高い保育とは、幼児の視点から見ると自由感あふれる保育であり、保育者側から見ると幼児の遊びの中に教育的価値を見いだし、その幼児の発達の課題に幼児自身が向かっていく状況をつくることだ言えます。質の高い保育を支えるのは、幼児理解です。人間は思い込みで目の前の現象を見ていると言われます。「思い込み」を外さないと幼児理解は深まりません。そこに有効に働くのが「園内研修」だと考えられます。多様な視点に触れ、各保育者が自身の幼児理解に揺らぐ体験をすることで「思い込み」を外すのです。
それでは保育カンファレンスを例に、「次回が楽しみになる園内研修」を探りましょう。保育カンファレンスが有効に機能するためには、「話の具体性」「発言の対等性」が必要です。「話の具体性」を実現するために、従来は事例を活用してきました。そのよさについては申し上げるまでもありませんが、逆に事例の準備に負担感を抱く場合もあります。そこで、写真を活用してみてはいかがでしょうか。写真とそれにまつわる話を提供することで具体性を実現していきます。また、「発言の対等性」が保障されるためには、管理職やベテラン保育者が導くという「伝達型」からの脱却が必要です。そこで、管理職等はファシリテーターや板書役を担い、各保育者のよさが発揮される状況づくりを行います。このような環境が整った上で、建前でなく本音で話すことを推奨していきます。保育上の問題意識について保育者自身の内面をさらけ出す必要があるからです。そして、相手を批判したり優劣を競おうとしたりしないで、相手の意見が間違っていると感じた場合でも、それをよい方向に向けて建設的に生かす方向を大事にします。ポジティブな発言を多くすることです。そして、「正解」を求めようとしないで、多様な意見が出されることを目指し、まとまらなくても時間で終わりにすることが重要です。つまり、多様な視点に触れ、自分の視点に揺らぐことに意味があるからです。
おわりに、最近体験した私の揺らぐ体験について記します。ある園を参観させていただいたときの話です。友達の上履きを履いて嬉しそうな表情で歩くAちゃんがいました。その後、違う友達のものも履いていました。私は、その上履きの持ち主のことが好きなのだなと理解しました。数日後、ラジオから「誰かの靴を履いてみること」の話題が聞こえてきました。それは、「エンパシー(共感・感情移入)」についての解釈だったのです。私はドキッとして、記録用に撮っていた映像を見返しました。Aちゃんが履いていた上履きの持ち主の二人とも、先生の膝に腰掛け絵本を読んでもらっていたのです。もしかして、Aちゃんはこの二人の上履きを履くことで、先生の膝で絵本を聞く情況を味わっていたのかもしれません。 (中村 崇)
初出:ぐんしよう №189 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会