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せん長の「ぽんぽこコラム」

ようかい体験

 「ようかい体験」と聞くと、「ゲゲゲ」ですか?と思われるかもしれませんね。しかし、本稿で扱うのは「溶解体験」です。

 現代の多くの人々は、有用性(役に立つか否か)を原理としての世界で生きているのではないでしょうか。しかし、それだけだと「今」の時間は未来の目的を実現させるための手段とみなされて、「今」はそれ自体では価値がなくなるように思われます。そこで溶解体験に着目したいと考えます。対象に見入ったり、聴き入ったりすることや心身で感じることを通して、自分と対象との境界が溶けたようになり、混然一体とすることを溶解体験と言います。「遊び込む」「没頭」「没入」「熱中」「ゾーンに入る」などと表現されることもあります。また「驚嘆」「畏敬の念」「センス・オブ・ワンダー」も溶解体験に深く関係するでしょう。溶解体験は、明確に意識して言語化することが困難な体験です。すなわち、既知の世界を破る認識不可能な「非知」の体験といえます。意味として定着できないからこそ、世界の新たな意味が生成されるのです。何かの役に立つことではなく、有用性にとらわれないことで可能になる心情の生成です。このような体験を深めるとき、不思議でおもしろく、魅力的で畏れるほど美しいこの世界と一体なのだという感覚が生成されるのでしょう。これは「自己の尊厳」を生み出す貴重な感覚なのです。

 ここで私が担任をした3歳児A児の事例を紹介します。A児は、段ボール積み木(中に空のペットボトルが6本入っている段ボール箱)を鉄棒の下に持ってきて、その上に乗りました。両手で鉄棒を持ち、段ボール積み木の上でジャンプを繰り返していましたが、積み木の端に足を着いたためバランスを崩して積み木が転がり、身体が勢いよく滑り落ちるように移動し、積み木に座るような体勢になりました。驚きと眩暈感覚的な快さが入り交じったような表情で一瞬A児の動きが止まります。A児は同じ感覚が味わいたいようで、何度もジャンプして積み木に着地する足の位置を変えたり、積み木の位置をずらしたりしていました。何とも言えない「あの感覚」にまた出会おうと試みを繰り返していたのです。

 私は保育者の皆様に、有用性としての経験のほかに、溶解体験にも着目して子供と一緒に遊ぶことを提案します。(中村 崇)

 

参考資料

矢野智司(1998)非知の体験としての身体運動~生成の教育人間学からの試論~.体育の科学.Vol.48.10月号

矢野智司(2006)意味が躍動する生とは何か―遊ぶ子どもの人間学.世織書房

川田 学(2019)保育的発達論のはじまり.ひとなる書房

 

初出:ぐんしよう №201 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会

「だろう」「かもしれない」問題

 30数年前の私は幼児教育専攻の学生で、教育実習での週案・日案作成に苦しめられていました。特に私を悩ませたのは、「予想される幼児の姿」の記述です。予想される姿ですから、文末は「~するだろう」「~するかもしれない」となります。「だろう」「だろう」ばかりが重なると読みにくいから、時には「かもしれない」と書いていました。とても未熟で、短絡的でした。

 保育者になり、直感的・感覚的に書き分けるようにはなりましたが、ある日、中学校の教員に「指導案の『だろう・かもしれない』の違いはなに?」と聞かれ、明確に回答できませんでした。そこからやっと、「だろう」「かもしれない」問題に向き合う日々が始まったのです。保育者生活で掴んだ論理は次のとおりです。「だろう」と記述する予想される姿は、前週・前日の姿を基に、環境に関わって遊ぶ幼児の姿を推測したものです。逆に言えば、この「だろう」の姿が表れるような環境の構成を行うことが大切だと言えます。「かもしれない」と記述する姿は、もしかすると発展して表れるかもしれない姿を念頭に置いたものです。この「かもしれない」に対応する保育者の行為が「リソース(引き出し)」であり、「環境の再構成」として整理されることと考えます。しかし、時に「かもしれない」を超越する、予想が裏切られることが展開されます。困りますよね。いや、これこそが、「おもしろい」のです。佐伯1)は、保育者の何ごとも解釈してしまう心には「おもしろさ」は生まれず、むしろ「おもしろさ」が生じたときは「解釈」が吹き飛ぶと言っています。保育の、幼児の「おもしろさ」は、保育者の「かもしれない」を超えるところにあるのです。私たち保育者は、それを受け入れる度量を備え、「おもしろい」を感じたいですね。(中村 崇)

1)「ビデオによるリフレクション入門 実践の多義早発性を拓く」佐伯胖・刑部育子・苅宿俊文2018東京大学出版会

初出:ぐんしよう №200 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会 本稿は、一部改稿したもの

ジャンケンで決める

 「ジャンケンでしか決めらんないん?(決められないの?)」

 「ほんとにそれでいいんかい?(本当にそれでいいの?)」

 これは私が幼稚園で担任をしていたとき、“もめ事”の際に幼児に掛けた言葉です。幼児が自分たちで“もめ事”の解決を図ろうとしているのだから、なぜそのようなことを言うのかなあ、自分たちで生活していこうとする素晴らしい姿ではないか、などと御批判もありそうです。

 「ジャンケン」は、ロジェ・カイヨワの言う「アレア(運や賭けを伴う遊び)」であり、偶然性の内に面白さがあります。「あっち向いてホイ」にはなくてはならないものですし、「かくれんぼ」「鬼ごっこ」の鬼を決める際にもたいへん有効な手段です。サッカーのゲーム前のコイントスのように、異議を言う者はいないと思います。

 “もめ事”は、幼児の日常の中にあります。意見の食い違い、役割の決定、ものの取り合い、順番・・・等、これを「ジャンケン」で決めることが、平和的で協働的な社会の実現を目指す未来の担い手としての子供たちに積極的に経験してほしいことなのかと、私は自身に問い続けています。

 大学に勤務していた恩師と上述のような「ジャンケン」にまつわる私の実践と課題意識について話をしているなかで、次のように伺ったことがあります。「学生は、研究室・ゼミでの役割などをジャンケンで決めようとする。一緒に過ごす仲間であるからこそ、互いの特性やサポートの体制、挑戦する意欲等を念頭に、ジャンケンではない方法を探ってほしいと、その都度提案してきたが・・・」という話です。それぞれが背負っている背景や、そこに至る文脈を受けて進んでいく効率的ではない人間社会の意味について再考するきっかけになったことを記憶しています。

 もう20年も前になりますが、小学校の生活科の授業を参観したことがあります。グループで考えたゲーム(この授業では「遊び」と言っていたが、敢えて「ゲーム」と表現する。その意図は、前回の「ぽんぽこコラム」を参照)を紹介する授業でした。「タイヤのある場所」をめぐって二つのグループによる「どちらが先に使うか」についての“もめ事”が起こりました。近くにいた先生は「ジャンケンしなさい」と言ったのです。子供たちが、自他の思いや状況に気付き、なんとか前に進むために折り合いをつけたり、アイデアを出し合ったりする貴重な学びの時が失われた瞬間でした。

 次に幼稚園で体験したエピソードを記します。5歳児のAちゃんとBちゃんは、同じ図柄のチラシで紙飛行機を作り園庭で飛ばしていました。一つの紙飛行機が水溜まりに着陸し泥で汚れました。Aちゃんは近くに着陸した汚れていない紙飛行機を自分のものだと言います。Bちゃんはびっくりした表情でAちゃんが主張する汚れていない紙飛行機が自分が飛ばしたものだと言います。二人の会話は言い争いに発展しました。私はそこに2時間ほど関わることになりました。私が留意したことは二つです。一つは、時間が長くなるとBちゃんが諦めて、「もういいよ」と言って去ろうとするのを引き留めること。もう一つは、このままだと互いに相手は自分のことをどのように思って今後の友達関係を続けることになるのだろう?という問い掛けを様々なアプローチで伝えること。最終的には2時間後、Aちゃんは、泥で汚れたのが自分の紙飛行機であることを話し、私も含めてみんな自然に涙があふれ出し、三人で肩を抱き合いました。

 ジャンケンに委ねるのではなく、大人が決めるのでもなく、子供が自分で、自分たちで、「どうにか」する。子供と共に悩みながら、この過程の中で何が経験され、何が育ちゆくのかを理解していくことが大事なのではないかと思うのです。子供が「どうにか」しようと対象に向かっていく状況づくりは、子供が自分自身の世界を広げようとすることにつながり、それこそが質の高い教育なのではないかと、「ジャンケン」を通して思いをめぐらせた話です。(中村 崇)

初出:ぐんま幼児教育センターだより 第44号

「遊び」-「遊ぶ」をめぐる教師の視点と“構え”

 みなさんは、子供の「遊び」をどのように捉えていますか。仲間と一緒に笑顔で活動していることを、「遊び」をしていると捉えますか。この「遊びをしている」と「遊ぶ」に違いはあるのでしょうか。本稿は、子供の育ちを支える教師の指導の在り方について、「遊び」-「遊ぶ」をめぐる教師の視点と“構え”という視座から考えていきたいと思います。

 「遊び」については、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」やロジェ・カイヨワの「遊びと人間」をはじめ、様々な考察が行われてきました。私が本稿で取り上げるのは、杉原隆の論考です。杉原は「生涯スポーツの心理学」(2011)にて、内発的に動機づけられた活動こそが「遊び」であるとし、「遊び」を連続体として捉えることを提言しています。人間は、一つの動機だけで活動することは少ないと考えられますので、遊びを内発的動機かそうでないか(外発的動機)という二分法で捉えることは困難であるわけです。そこで、内発的動機づけを「遊び要素」、外発的動機づけを「非遊び要素」と考え、内発的動機づけが強いほど遊び的な活動であり、逆に外発的動機づけが強くなるほど遊びではなくなるとしたのです。例えば、友達と一緒にやりたい(親和動機)、先生に褒められたい(承認動機)、その活動の面白さに惹かれている(内発的動機)などのように同時に複数の動機をもっている場合、友達と一緒にやりたいとか先生に褒められたいとの思いが強い場合は非遊び要素が高く、その活動の魅力や面白さに惹き付けられている場合は遊び要素が高いということになります。このように、同じ活動をしていても、遊びとしての活動という場合もあれば、まったく遊びとは言えない活動もあることになるわけです。このような「遊び」の捉えを見ていくと、私たち教師は前述の意味での「遊び」の発生を支え、時間的・空間的・人的な保障をしていくことがその役割と考えられます。

 しかし、子供と共に過ごす中で意識を向ける必要があるのは、むしろ「遊ぶ」ではないのかという考えにも至るのです。「遊ぶ」という行為の中で子供は何を経験し、何が育ちつつあるのかを読み取って、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を念頭に置きつつ、子供理解に基づく一人一人の発達の課題に子供自身が向かっていく(乗り越えていく)状況をつくることが、本質的な教育の意味(教師の役割)と考えるのです。この教育実践には、幼児期の教育に携わる教師(保育者)の高度なファシリテーションスキルが有効に働いていると考えられます。ファシリテーションスキルには、基本的な四つのスキル「場をデザインするスキル」「対人関係のスキル」「構造化のスキル」「合意形成のスキル」があると言われます。「場をデザインするスキル」は、「環境の構成」という考え方、特に「状況づくり」が深く関係しています。「対人関係のスキル」は、安心感や信頼関係、そして「構造化のスキル」「合意形成のスキル」は子供と一緒に悩むという姿勢、すなわち子供の主体性や思考を促す“構え”に深く関係しています。

 このような教師の視点と“構え”は、今日的な教育課題である「STEAM教育」や「非認知能力(社会情動的スキル)の育成」等を乗り越えるヒントにもなり得ると考えられます。幼児教育施設に所属の皆様は、「〇〇遊び」という“かたち”ではなく、「遊ぶ」という行為に内在する教育的価値に一層深く意識を向けてみてはいかがでしょうか。小・中・高・特別支援学校に所属の皆様は、幼児期の教育の理解を進めてみてはいかがでしょうか。(中村  崇)

初出:ぐんま幼児教育センターだより 第41号 

次回が楽しみになる園内研修

 みなさんは、園内研修についてどのようなイメージをもっていますか?ある報告によると「お腹が痛くなる」「自分の意見に反論されたらどうしよう」などが挙げられていました。そこで今回は、「次回が楽しみになる園内研修」について考えていきたいと思います。

 まず、確認しておきたいのは、園内研修を行う目的です。園の置かれてる状況により様々な目的が考えられますが、大きな目的は質の高い保育の実現と言えるのではないでしょうか。質の高い保育とは、幼児の視点から見ると自由感あふれる保育であり、保育者側から見ると幼児の遊びの中に教育的価値を見いだし、その幼児の発達の課題に幼児自身が向かっていく状況をつくることだ言えます。質の高い保育を支えるのは、幼児理解です。人間は思い込みで目の前の現象を見ていると言われます。「思い込み」を外さないと幼児理解は深まりません。そこに有効に働くのが「園内研修」だと考えられます。多様な視点に触れ、各保育者が自身の幼児理解に揺らぐ体験をすることで「思い込み」を外すのです。

 それでは保育カンファレンスを例に、「次回が楽しみになる園内研修」を探りましょう。保育カンファレンスが有効に機能するためには、「話の具体性」「発言の対等性」が必要です。「話の具体性」を実現するために、従来は事例を活用してきました。そのよさについては申し上げるまでもありませんが、逆に事例の準備に負担感を抱く場合もあります。そこで、写真を活用してみてはいかがでしょうか。写真とそれにまつわる話を提供することで具体性を実現していきます。また、「発言の対等性」が保障されるためには、管理職やベテラン保育者が導くという「伝達型」からの脱却が必要です。そこで、管理職等はファシリテーターや板書役を担い、各保育者のよさが発揮される状況づくりを行います。このような環境が整った上で、建前でなく本音で話すことを推奨していきます。保育上の問題意識について保育者自身の内面をさらけ出す必要があるからです。そして、相手を批判したり優劣を競おうとしたりしないで、相手の意見が間違っていると感じた場合でも、それをよい方向に向けて建設的に生かす方向を大事にします。ポジティブな発言を多くすることです。そして、「正解」を求めようとしないで、多様な意見が出されることを目指し、まとまらなくても時間で終わりにすることが重要です。つまり、多様な視点に触れ、自分の視点に揺らぐことに意味があるからです。

 おわりに、最近体験した私の揺らぐ体験について記します。ある園を参観させていただいたときの話です。友達の上履きを履いて嬉しそうな表情で歩くAちゃんがいました。その後、違う友達のものも履いていました。私は、その上履きの持ち主のことが好きなのだなと理解しました。数日後、ラジオから「誰かの靴を履いてみること」の話題が聞こえてきました。それは、「エンパシー(共感・感情移入)」についての解釈だったのです。私はドキッとして、記録用に撮っていた映像を見返しました。Aちゃんが履いていた上履きの持ち主の二人とも、先生の膝に腰掛け絵本を読んでもらっていたのです。もしかして、Aちゃんはこの二人の上履きを履くことで、先生の膝で絵本を聞く情況を味わっていたのかもしれません。  (中村 崇)

初出:ぐんしよう №189 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会