ブログ

せん長の「ぽんぽこコラム」

ところでさぁ

 幼稚園で担任をしていたときの話です。

 Aちゃんが、おうちの方の仕事について、自分が知っている情報を情熱的に伝えています。

 A:「印刷の仕事はねえ、大きな機械を動かしてね、すごいたいへんなんだよ」

私:「そうなんだぁ。たいへんな仕事なんだね」

 A:「そうなんだよ」

 

 Aちゃんの動きが一瞬止まり、そして私の顔をじっと見つめて

 A:「ところでさぁ、せんせいって、何の仕事してるん?」

 

私:「えっ?‼」(今度は私の動きが止まった)

 

 保育者として、Aちゃんからもらった最高の言葉だったと思います。なぜなら、毎日、真剣に子供たちと遊んでいたことを認められたと思うからです。Aちゃんは、この「せんせい」という大人は毎日、自分たちと遊んでいて仕事をしているのかなあ、不思議だなあ、と思ったのではないでしょうか。

 子供の言葉を大人の視座で理解(理解力の不足など)するなら、子供の心に寄り添う教育の実現は難しいと考えます。そして子供の姿は、保育者の保育についての評価であると考えます。子供の評価のみで、保育者自身の評価が外れていることはないでしょうか。(中村 崇)

 

ゴム跳び?

 ある園の園内研修に伺いました。幼児の運動発達について、実技を交えながらの研修です。私は先生方に問い掛けます。「子供のころ、ゴム跳び、したことありますか?」

「あります。あります」(少数派)

「えー?ないです」(多数派)

 

 あります、ありますの二人の先生にお手伝いいただいて、私がまずはやってみます。地域ごとにやり方は様々だと思うので、「○○町で生まれ育った、○○歳の私が子供のときにやったのは」と言いながら、「グー・パー・グー・踏み・グー・パー・ねじって・ピョン・A・B・C」と跳んでみます。

「おー‼」(拍手)と先生方が盛り上げてくれます。

続いて、あります、ありますの先生がノリよく、「○○市の○○歳がやりまーす」と言って、私とはちょっと違ったやり方を見せてくれました。

「おー‼」(拍手)と先生方が笑顔になります。

 

 少数派は保育経験を重ねた先生方で、多数派はこれから保育者としての経験を積み重ねていこうとする先生方でした。このように自分の子供時代に遊んだことなどを実際の動きとともに伝え合う機会は、相互理解を促し、同僚性を高めることにつながるでしょう。

 また、自身の幼少期の記憶をたどってみると、子供にとって遊ぶこととは何かについて、じっくり考えるきっかけになるのではないでしょうか。(中村 崇)

駄菓子屋のおばちゃん方式

 子供のころ、「おぎんちゃんち」という駄菓子屋さんに仲間と一緒によく集まっていました。店主のおぎんちゃんは、子供たちをよく理解していたように思います。今で言うインフルエンサー的な子に、「今度、学校でビー玉、流行らせておくれ」と言って、ビー玉が数個入っている袋を無償(ただ)で渡すのです。ビー玉をもらったその子は、仲間にビー玉で遊ぼうと誘い、瞬く間にビー玉が流行り、「おぎんちゃんち」の売り上げは伸びることになります。

 私は教師・保育者になってから、この現象を思い出し、人の行動変容に係る環境(人的なものを含める)の重要さに気付いたのでした。それ以降、私はこれを「駄菓子屋のおばちゃん方式」と呼んでいます。(中村 崇)

「環境の構成」と「方法としての教師」

 「環境の構成」とは、子供が興味・関心のある環境に働き掛けて遊ぶことで、(子供本人は期せずして結果的にもしくは近い将来に)自身の発達の課題を自分で乗り越えるための意味のある状況づくりをする教師の営みであると私は解釈しています。すなわち、ものを配置するだけにとどまらず、時間や雰囲気等が相互に関連し、周囲の人(友達・教師など)との関係性の中で環境が意味(教育的価値)をもつことに教師は意識を向ける必要があるということです。さらに、遊びの展開により環境は再構成され、常に動的な遊びを支える役割も忘れてはなりません。教師が望んでいる活動を引き出すための材料や用具を用意し、幼児の活動を誘発する“コーナー保育”に代表される「環境構成」とは明らかに違うものなのです。子供がエージェンシーを発揮し、自らの世界を広げていくためには、「環境の構成」の考え方が必要になってきます。

 環境の構成が有効に機能するためには、教師の在り方が重要になってくると考えます。我々幼児教育センターでは、子供が環境を通して自ら主体的に学んでいくために欠かせない存在である教師を「方法としての教師」1)2)と呼ぶことにしました。「方法としての教師」とは、子供がねらいに向かうための手立てとしての教師の在り方であり、教育の手段としての教師の存在とも言えます。いくら物的環境を整えても、それらと子供を結びつける意図的な教師の動きが不可欠であり、具体的には「子供の活動の意味を理解する」「子供の目線に立つ」「思いに共感し共鳴する」「学ぶ姿や関わる姿のモデルになる」「必要な人に対して必要なときに必要な援助を行う」「子供が精神的に安定するためのよりどころ」などの役割が重要であると考えます。このような教師の存在により子供は、「安心」と「自由感」を得て主体性を発揮していくでしょう。

 かねてより研修等でお伝えしてきたことですが、「○○遊び」をさせることが重要なのではなく、子供がどのようなことをして遊んでいても、その中に教師が教育的価値を見いだすことが重要なのです。これが環境を通して行う教育であり、遊びを通した総合的な学びなのです。 

 「環境の構成」は、小学校以降の教育でも有効に働くと考えます。(中村 崇)

 

1)中村 崇(2016)幼児の運動発達を促す教師の役割.群馬大学教育実践研究 第33号 pp.227-235

2)大島 崇・中村 崇・太田紀子(2025)子供に内在する非認知能力の発揮及び伸長を促す架け橋期の教育.群馬県総合教育センター

参考資料:森上史朗・柏女霊峰編(2011)保育用語辞典[第6版].ミネルヴァ書房:京都.

 

初出:ぐんしよう №202 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会

一部を改稿して掲載

顔がぬれて ちからがでない

 Aちゃんは、担任している私にたくさん話をします。しかし、どうもおとな(私)に頼りがちな気がします。

「ねえ、せんせい。これつくって」(折り紙の本をもってきて)

「せんせい。トンネル掘って」(砂場で山を作っていたとき)

 

 ある日、私はAちゃんの「ねえ、せんせい。ウサギの部屋作って」に対して、「顔がぬれて、ちからがでない」と応答しました。Aちゃんは、「アンパンマンかぁ~‼」(笑)・(#怒)と、にやけながら怒り口調で言葉を返し、自分でウサギの部屋を作り始めました。私は、少したってから「私にお手伝いできることはありますか?」とAちゃんに言葉を掛けると、Aちゃんは「じゃあ、ここおさえといて」と言いました。

 Aちゃんの遊び(生活)について、Aちゃんが主体になった瞬間でした。(中村 崇)