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カテゴリ:幼児教育

幼児の運動発達を促す教師の役割

 運動発達について、幼児の行動観察や幼児と関わる教師の在り方の考察から,明らかになったことは次のとおりである。

(1)情動が運動経過の変化に影響を与える可能性が示唆された。

(2)幼児の運動発達に関わる5つの特徴的な行動を見いだした。これは,幼児の運動を見取る教師の視点にもなり得ることが示唆された。

(3)上記の視点を活用する際の幼児と関わる教師の在り方は,教師自身の身体を通して敏感に幼児の内面を感知する姿勢をもつことであると言える。

 

 以下に,明らかになったことがらを詳述する。

 幼児の運動経過を見る視点として従来は,運動そのもの形態の変化を見たり,動作様式と比較したりする方法がとられていた。その重要性を認識しながらも,別の視点からの見方の可能性を探った。そこで着目したのは,運動が起こった背景やそのときの幼児の内面理解を通して運動経過を理解するというものである。特に幼児では,同じ運動でも,そのときの情況により運動形態に変化が見られる可能性があるからである(佐藤1))。

 A児の行動観察からは,緊張や不安,喜びや嬉しさ,楽しさといった喜怒哀楽に伴う運動発生が見られた。すなわち情動が影響して発生する運動があることが分かった。

 さらに,A児の行動観察で得た運動発達に関わる特徴的な行動に着目した。それは,①見る,②身体が一緒に動く,③模倣する,④運動感覚の類縁性(キネステーゼ・アナロゴン),⑤おもわずやってしまう動き,の5点である。

 「見る」とは,他人の動きかたをよく観察して,まとまった動きのイメージを自分のなかに描く行為であると考えられる。「身体が一緒に動く」とは,その対象への運動共感の現れであり,別言すれば,対象となっている運動に引きずり込まれるような感覚を体感していると言えよう。「模倣する」ことについて,金子は,メルロ=ポンティの言葉を引き,「幼児は他者の動きの感じを運動メロディーとしてまるごと知覚し,しかもそれは対私的な運動認識ではなく,他者とともにある意識に基づいて共感する」2)からできることだと言っている。すなわち「模倣する」ことは,「見る」「身体が一緒に動く」と一連をなしており,対象になっている他者の内面を共有している感覚と言えるだろう。

 「運動感覚の類縁性(キネステーゼ・アナロゴン)」とは,目的のために身体を動かした結果,目的とは全く違うこと,しかもできると思っていなかったことができる体験を通して説明されるものである。幼児は,遊びを他の目的のために行っているわけではなく,遊ぶこと自体に真剣に向き合っている。そのような幼児は,遊びのなかで,数多く「運動の類縁性」を体験しているだろうと考えられる。

 「おもわずやってしまう動き」は,客観的に見ると,何の前触れもなく出現する動きである。これは,模倣により,ある程度とらえた運動の感じ(運動感覚)を実感してくると,気に入った動きや気になる動きになっていき,その動きの表出のことではないかと考える。これらの動きは,動きの洗練,成熟に向かっていく過程の行為なのではないかとも考えられる。

 以上のように,幼児の運動をとらえる視点を得ることができた。ここで得た運動をとらえる視点を活用し,幼児の運動発達を促すためには,教師は幼児とどのように関わったらよいのか。その知見も本研究で得られた。頭での理解にとどまらず,教師自身の身体を通して敏感に幼児の内面を感知する姿勢,すなわち,幼児の身体の在り方を教師の身体が感知し,教師の身体の在り方が幼児の身体の在り方に影響を与えるという関わりである。

 

 幼児の運動経過を見る視点として,運動が起こった背景やそのときの幼児の内面理解を通して運動経過を見るという視点からの分析を試みた。そこから分かったことは,緊張や不安,喜びや嬉しさ,楽しさといった喜怒哀楽に伴う運動発生,すなわち情動が影響して発生する運動があるのではないかということである。

 さらに幼児の行動観察から,①見る,②身体が一緒に動く,③模倣する,④運動感覚の類縁性(キネステーゼ・アナロゴン),⑤おもわずやってしまう動き,という5点の特徴的な行動に着目した。これらは,他者の動きを目にするなど外部からの刺激が基になって自分の意識が働き発生する運動であると考えられる。そして,この5点の特徴的な行動は,幼児の運動発達をとらえる教師の観察の視点にもなり得ると考えられる。

 以上の結果から,幼児の運動発達を促す教師の役割を整理すると次のように言える。

 情動が影響して運動経過が変化することが示唆されたことから,不安や緊張感,精神的な圧迫からの解放,言い換えれば安心して遊べる,嬉しい・楽しい感情がわく環境の構成や働き掛けを行うことが,幼児本来の身体活動を保障し,運動発達を促すことにつながるのではないかと考える。

 異年齢児と関わる状況の生成やモデルとしての教師の役割,対象にじっくり関わるための時間の保障,幼児の内面への共感などが,「見る」「身体が一緒に動く」「模倣する」などの幼児の姿につながると考えられる。また教師は,「運動感覚の類縁性(キネステーゼ・アナロゴン)」に関する動作を意識して見ることで,動作の獲得過程を幼児と共に感じることができると推測される。「おもわずやってしまう動き」を表面的にとらえず,一つ一つの動きや行為に意味を見いだし,尊重する姿勢で幼児に関わることも,運動発達を促す教師の役割であろう。

そして,遊ぶ幼児の身体の在り方を教師の身体が感知し,教師の身体の在り方が幼児の身体の在り方に影響を与えるという関係性を十分認識していく必要があろう。(中村 崇)

 

1)佐藤 徹(2014)運動発達査定における動感志向分析の意義,体育学研究59,pp.67-82

2)金子明友(2002)わざの伝承.明和出版:東京,p.408

 

本文は、中村 崇(2016)幼児の運動発達を促す教師の役割,群馬大学教育実践研究第33号,pp.227-235の一部を加筆修正し掲載

キネステーゼ・アナロゴン

 「キネステーゼ・アナロゴン」??????って、はてな?がたくさん浮かびますよね。この言葉、何なのでしょう。キネステーゼとは、身体を動かすときの「コツ」や「感じ」などの運動感覚(「動感」と言う方が学術的には意味が近い)を表すフッサールによる造語です。アナロゴンとは、ある運動のもつ動きの仕組み(運動局面と運動リズム)にほとんど大きな違いがない類縁性をもつ、すでに習得している動きのことです。今回は、私の専門研究領域である運動発達における子供の動作習得やそれを支える保育者の在り方についてお伝えします。

 運動ができるためには、これまでの運動経験をもとにして、「できそうな気がする」と思えるような具体的な動きの感じが必要です。そこで、今までに味わってきた運動感覚と、「今、子供が取り組んでいる運動」の感覚をつなぐ言葉掛けが重要になってくるのです。子供は今までに味わったことのある運動感覚と、これからやろうとする運動の感覚とが似ていることに気付けば、「あの感じでやれば、できそうだな」というある種の自信をもって運動に挑戦していくと考えられます。

 例をあげます。足を地面につかないでブランコをこぎだす感じは、鉄棒の「足かけ振り」のキネステーゼ・アナロゴンと言えるでしょう。また、雑巾を絞る(縦絞り)動作は、棒を両手で縦に持って「グッ」と肘を伸ばして前へ突き出す(剣道みたいな)動作との類縁性があると考えられます。このようなことを念頭に置いて子供との生活を送ると、保育の新たなおもしろさが感じられるかもしれません。(中村 崇)

 

初出:ぐんしよう №204 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会

「積み木を積んで家を作っているから、算数の図形につながっているよね」って、そういう理解でいいのかなあ?

 小学校教師が、幼児教育施設における遊びについて教科内容を窓口に理解しようとするなら、そこで育っている「資質・能力」の本質的な理解には及ばず、入学してくる児童の「資質・能力」を小学校教育で生かすことは困難になるだろう。また幼児教育施設において保育者が、遊びについて小学校の教科内容の類似点に着目するならば、豊かで深い多義的な体験を支えることは困難になるだろう。

 

 子供が遊ぶ、その行為のなかに、小学校以降の教科教育の内容(すること)との類似性、関連性を見て、つながっているか否かと言っていることに何の意味があるのだろうか。遊ぶということを、人間の生きるという意味での総合的な行為のなかにあると考えれば、学校教育の教科内容とつながっているに決まっているのだから。日本で言えば学校、教科教育の歴史はおよそ150年、寺子屋等を考慮しても数百年の歴史である。私たちホモ・サピエンス(現生人類)は、40〜25万年も前から遊び、そして生活してきた。約1万6000年前から生活している縄文の人たちは、仲間との共通理解の中で長さの単位をもち活用していた。そのように、生活の中で共有した方が生きやすいと思われる文化的な要素を、関連事項として取り出し体系的に整理したものが、教科である。すなわち、子供が遊ぶなかで経験されることが、教科内容につながっているということは容易に理解できる。

 

 学校教育の教科内容はあらかじめあるわけで、そこへの子供の興味・関心、関わる意欲をどのように支えるか、どのように湧き立たせるかが教師の役割として重要なのではないだろうか。教科の窓口では、人間は理解できない。子供理解の上に、教科内容に子供が自ら向かっていく方法を探るのが教師の役割であろう。人間を理解しなければ、教科は成立しないのは当たり前である。教科の窓口で子供の行為を理解することから脱却しなければ、自由進度学習や個別最適な学び、主体的・対話的で深い学びなど実現するはずがない。

 

 「遊びの人類学ことはじめ フィールドで出会った〈子ども〉たち」(2009 昭和堂)の中で文化人類学者 亀井伸孝は、「ヒトはなぜ遊ぶのか。それは楽しいからだという答えに行き着くかもしれない。であるとするならば、ヒトはなぜそのようなことがらを楽しむ能力をもって生まれるのか。それはおそらく、自然環境のなかで狩猟採集文化が無理なく伝承されていくための、不可欠かつ有用な能力の数かずであるのだろう。自然界における進化のプロセスで、そのような性質がいつしかそなわっていったのは興味深いことである。私たちヒトの社会がどこまで文化変容をとげたとしても、遊ばずにはいられない生き物であり続けていることは明らかである。それは、文化が変わっても変わることのないヒトの本性であり、狩猟採集民としてこの世に出現したヒトのルーツに直接関わっていることにちがいないのである」と述べている。すなわち、この遊びが、どの教科につながっているとか分析しても意味がない。つながっているに決まっているのだから。生きる「人」としての育ちに目を向け、場(関係性を含む)が変わっても、子供がその育ち(資質・能力)を生き生きと発揮するような状況づくりが大切なのである。そのために、架け橋期の教育について、幼児教育の保育者と小学校の教師が、相互理解を深め、協力することが求められているのである。子供を中心に考えたときに。(中村 崇)

クリティカル・シンキングのすゝめ

 みなさんは、「体育座り(三角座り)」について、何か思うところはありますか。深く考えたことはないけれど、体育館・遊戯室等に集合したときや体育・運動会のときの「正しい」座り方だよね、と思っていますか。私は、大いに言いたいことがあります。みなさんは、子供たちへの願いとして、自分の考えを生き生きと表現し、友達の意見を傾聴して刺激し合いながら学んでほしいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。しかし、「体育座り」の姿勢は胸を閉じるようになり、自己を発揮する姿勢とは真逆です。姿勢の状態が心の在り方に重要な影響を与えることを示唆している研究もあります。「体育座り」の姿勢は、心理的に「閉じている」ことを表す姿勢です。この姿勢が、いつから教育現場で活用しはじめられたのかを調べると、1965年に当時の文部省が「集団行動指導の手びき」で「腰をおろして休む姿勢」として紹介したことがきっかけでした。一例なのです。しかし、保育者・教師側から見ると子供の管理がしやすい姿勢と認識されたので全国的に活用されたと思いますが、子供側から見たときには自由感を感じにくく自己発揮しづらい姿勢と言えるのではないでしょうか。現在、腰への負担や内臓の発達への負の影響が医学的な立場から懸念されています。

 しかし、今回本当に言いたいのは前述の事柄ではありません。実は、「体育座り」にまつわる話に似たような現象が、今、「架け橋期のカリキュラム」においても起きつつあるのではないかと心配しているのです。文部科学省が公開している「幼保小の架け橋プログラムの実施に向けての手引き(初版)」の「3-(2)開発会議で開発する架け橋期のカリキュラムのイメージ」に、私の心配の発端があります。この「架け橋期のカリキュラムのイメージ」には、致命的な弱点があると感じています。まず一見、一枚紙にまとめなくてはいけないような印象を与えています。さらに、「園で展開される活動/小学校の生活科を中心とした各教科等の単元構成等」の欄があり、○○遊びと記入したくなったり、単元名の羅列になったりする可能性が強いのです。そのような記述をしても、何の意味もありません。幼児教育の指導計画や週・日案の「内容」の部分が大事なはずです。すなわち、活動名・遊びの名称・単元名ではなく、発達を念頭にそこで経験させたいことを明記することが意味あることではないかと思うのです。経験させたいこととは、学校生活や教科教育の基盤となり、そこでの発揮が期待される資質・能力≒非認知能力と考えます。しかし、幼児教育施設の指導計画等を見ると、いまだに内容として「○○遊び」と記入している園が多いことを考えると抜本的な改革が必要なように感じます。文部科学省の上述の資料の解説をじっくり読めば、単に活動や単元名の羅列をするものではないことは分かるのですが、例示された表のインパクトが強くて、一般的には理解が深まっていないように感じます。また、ここで作成した「架け橋期のカリキュラム」と、従来の指導計画とで、二重の計画ができてしまう中で、それをどう活用するというのでしょうか、という疑問も浮かびます。私は、文科省が示したのは一例だよ、と大きな声で言いたいのです。

 そこで着目していただきたいのは、群馬県総合教育センター幼児教育センターの開発した「ぐんま架け橋プラグラム」です。上述の懸案事項を乗り越える提案と自負しています。Webページにて公開していますので、ぜひご活用ください、また、保育アドバイザー派遣事業にて、「ぐんま架け橋プラグラム」の活用に向けての研修も提供しています。(中村 崇)

幼少年期のスポーツに対する子供の意欲と親の期待について③

 30数年前、学生だったときに書いた論文を読み返してみました。当時の私が課題だと思っていた事柄は、子供を主語にする教育論、伴走者としての教師の在り方、非認知能力の重要性等が教育的課題として認識される社会の潮流により好転している部分もあれば、未だ課題のままの点もあるなという感想です。

 22歳の私が書いた論文の一部を3回に分けて掲載します。本文はその3回目です。言葉や表現等、文言の調整は行いました。

 

 

 指導者に望むことは、技術を伝えることばかりにとらわれてはいけないということである。技術を伝えることは指導者の役割であるが、指導者の第一の役割は、子供たちにスポーツの楽しさを伝えることであると考える。そして、自由にスポーツ活動が行えるように安全面に配慮し、環境の整備を行っていくことが大切なのではないか。

 実際の指導場面でも、気を付けなければならないことがある。それは、指導者が何気なく言った言葉が、子供の心を深く傷つけてしまうことがあるということである。子供の心をより深く理解するための努力が望まれる。嫌々やっているのであれば、やめたほうがよいと思う。子供は敏感であるから、大人のそのような心はすぐに読み取るだろう。指導者が、子供に及ぼす影響は大きい。そのことをよく踏まえて行動し、指導的立場に立つ必要があるだろう。

 もう一つ、気を付けなければならないことがある。それは、勝利至上主義的指導にならないようにすることである。知らず知らずのうちに勝つことだけをめざして、子供のためのスポーツのはずが、指導者の勝ちたいという欲求を子供を使って満たそうとする状況に陥ることがある。子供のスポーツは、大人のスポーツとは違うのである。大人のスポーツの縮小を子供のスポーツと考えている人がいるが、その考えは明らかに間違いである。大人と子供の体は全く違うものと考えなければならない。子供の発達に合わせ、競技方法も変えて考えていかなければならない。サッカーのゲームで言えば、幼児期は柔らかく軽いボールを使用し、ゴールへの蹴り合いが主となるゲームがよい。柔らかくて軽いボールを使用するのは、足の障害を予防することと、ボールは怖いものではないということを伝えるためである。空気を少し抜いて弾みをおさえることも有効である。なぜなら、ボール・コントロールがしやすくなるからである。少年期前半(小学校1~3年生くらい)では、ボールは3号球を使用し(規定では小学生の使用球は4号球)、コートも小さくして行う。ボールの空気を少し抜くことも継続してよいだろう。ゴールキーパーは置かず、オフサイド・ルールも採用しない。扱いやすい小さなボールを使用し、オフサイドのような難しいルールをなくすことにより、自由なプレーが身に付くと考える。そしてゴールキーパーがいないことで点が多く入り、おもしろさが増すだろう。少年期後半(小学校4~6年生くらい)では、ドリブルなどの個人技を重視し、ロングキックや強いキックを望む必要はない。これらは私の考えであるから、様々な意見があるだろう。しかし私が言いたいのは、子供一人一人の発達を考え、その子供に合った指導を望むということなのである。

 大人と同じような質・量のスポーツを行うことは、幼児期・少年期でのチャンピオンを養成するのには適しているであろう。しかし、小さなチャンピオンを作ったとしても、その子供は少年期で全てをやり終えたように感じ、「あれだけ苦しいことに耐え、頑張ったのだからスポーツはもういい」という気持ちになりかねない。これが燃えつき現象(バーンアウト)と言われていることであるが、このような子供を出さないように、指導者は指導方法を考えていかなければならないと考える。

 子供のスポーツに関わる全ての大人たちには、子供のスポーツを遊びと捉え、スポーツの楽しさを伝えることに重点を置くことが望まれる。そして、子供の意欲が、大人によって消されることがないように望んでいる。(中村 崇)

 

 

本文は、中村 崇(1992)幼少年期のスポーツに対する子どもの意欲と親の期待について.上越教育大学.pp.63-66の一部を加筆修正し掲載