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カテゴリ:幼児教育

「積み木を積んで家を作っているから、算数の図形につながっているよね」って、そういう理解でいいのかなあ?

 小学校教師が、幼児教育施設における遊びについて教科内容を窓口に理解しようとするなら、そこで育っている「資質・能力」の本質的な理解には及ばず、入学してくる児童の「資質・能力」を小学校教育で生かすことは困難になるだろう。また幼児教育施設において保育者が、遊びについて小学校の教科内容の類似点に着目するならば、豊かで深い多義的な体験を支えることは困難になるだろう。

 

 子供が遊ぶ、その行為のなかに、小学校以降の教科教育の内容(すること)との類似性、関連性を見て、つながっているか否かと言っていることに何の意味があるのだろうか。遊ぶということを、人間の生きるという意味での総合的な行為のなかにあると考えれば、学校教育の教科内容とつながっているに決まっているのだから。日本で言えば学校、教科教育の歴史はおよそ150年、寺子屋等を考慮しても数百年の歴史である。私たちホモ・サピエンス(現生人類)は、40〜25万年も前から遊び、そして生活してきた。約1万6000年前から生活している縄文の人たちは、仲間との共通理解の中で長さの単位をもち活用していた。そのように、生活の中で共有した方が生きやすいと思われる文化的な要素を、関連事項として取り出し体系的に整理したものが、教科である。すなわち、子供が遊ぶなかで経験されることが、教科内容につながっているということは容易に理解できる。

 

 学校教育の教科内容はあらかじめあるわけで、そこへの子供の興味・関心、関わる意欲をどのように支えるか、どのように湧き立たせるかが教師の役割として重要なのではないだろうか。教科の窓口では、人間は理解できない。子供理解の上に、教科内容に子供が自ら向かっていく方法を探るのが教師の役割であろう。人間を理解しなければ、教科は成立しないのは当たり前である。教科の窓口で子供の行為を理解することから脱却しなければ、自由進度学習や個別最適な学び、主体的・対話的で深い学びなど実現するはずがない。

 

 「遊びの人類学ことはじめ フィールドで出会った〈子ども〉たち」(2009 昭和堂)の中で文化人類学者 亀井伸孝は、「ヒトはなぜ遊ぶのか。それは楽しいからだという答えに行き着くかもしれない。であるとするならば、ヒトはなぜそのようなことがらを楽しむ能力をもって生まれるのか。それはおそらく、自然環境のなかで狩猟採集文化が無理なく伝承されていくための、不可欠かつ有用な能力の数かずであるのだろう。自然界における進化のプロセスで、そのような性質がいつしかそなわっていったのは興味深いことである。私たちヒトの社会がどこまで文化変容をとげたとしても、遊ばずにはいられない生き物であり続けていることは明らかである。それは、文化が変わっても変わることのないヒトの本性であり、狩猟採集民としてこの世に出現したヒトのルーツに直接関わっていることにちがいないのである」と述べている。すなわち、この遊びが、どの教科につながっているとか分析しても意味がない。つながっているに決まっているのだから。生きる「人」としての育ちに目を向け、場(関係性を含む)が変わっても、子供がその育ち(資質・能力)を生き生きと発揮するような状況づくりが大切なのである。そのために、架け橋期の教育について、幼児教育の保育者と小学校の教師が、相互理解を深め、協力することが求められているのである。子供を中心に考えたときに。(中村 崇)