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2025年9月の記事一覧

幼少年期のスポーツに対する子供の意欲と親の期待について③

 30数年前、学生だったときに書いた論文を読み返してみました。当時の私が課題だと思っていた事柄は、子供を主語にする教育論、伴走者としての教師の在り方、非認知能力の重要性等が教育的課題として認識される社会の潮流により好転している部分もあれば、未だ課題のままの点もあるなという感想です。

 22歳の私が書いた論文の一部を3回に分けて掲載します。本文はその3回目です。言葉や表現等、文言の調整は行いました。

 

 

 指導者に望むことは、技術を伝えることばかりにとらわれてはいけないということである。技術を伝えることは指導者の役割であるが、指導者の第一の役割は、子供たちにスポーツの楽しさを伝えることであると考える。そして、自由にスポーツ活動が行えるように安全面に配慮し、環境の整備を行っていくことが大切なのではないか。

 実際の指導場面でも、気を付けなければならないことがある。それは、指導者が何気なく言った言葉が、子供の心を深く傷つけてしまうことがあるということである。子供の心をより深く理解するための努力が望まれる。嫌々やっているのであれば、やめたほうがよいと思う。子供は敏感であるから、大人のそのような心はすぐに読み取るだろう。指導者が、子供に及ぼす影響は大きい。そのことをよく踏まえて行動し、指導的立場に立つ必要があるだろう。

 もう一つ、気を付けなければならないことがある。それは、勝利至上主義的指導にならないようにすることである。知らず知らずのうちに勝つことだけをめざして、子供のためのスポーツのはずが、指導者の勝ちたいという欲求を子供を使って満たそうとする状況に陥ることがある。子供のスポーツは、大人のスポーツとは違うのである。大人のスポーツの縮小を子供のスポーツと考えている人がいるが、その考えは明らかに間違いである。大人と子供の体は全く違うものと考えなければならない。子供の発達に合わせ、競技方法も変えて考えていかなければならない。サッカーのゲームで言えば、幼児期は柔らかく軽いボールを使用し、ゴールへの蹴り合いが主となるゲームがよい。柔らかくて軽いボールを使用するのは、足の障害を予防することと、ボールは怖いものではないということを伝えるためである。空気を少し抜いて弾みをおさえることも有効である。なぜなら、ボール・コントロールがしやすくなるからである。少年期前半(小学校1~3年生くらい)では、ボールは3号球を使用し(規定では小学生の使用球は4号球)、コートも小さくして行う。ボールの空気を少し抜くことも継続してよいだろう。ゴールキーパーは置かず、オフサイド・ルールも採用しない。扱いやすい小さなボールを使用し、オフサイドのような難しいルールをなくすことにより、自由なプレーが身に付くと考える。そしてゴールキーパーがいないことで点が多く入り、おもしろさが増すだろう。少年期後半(小学校4~6年生くらい)では、ドリブルなどの個人技を重視し、ロングキックや強いキックを望む必要はない。これらは私の考えであるから、様々な意見があるだろう。しかし私が言いたいのは、子供一人一人の発達を考え、その子供に合った指導を望むということなのである。

 大人と同じような質・量のスポーツを行うことは、幼児期・少年期でのチャンピオンを養成するのには適しているであろう。しかし、小さなチャンピオンを作ったとしても、その子供は少年期で全てをやり終えたように感じ、「あれだけ苦しいことに耐え、頑張ったのだからスポーツはもういい」という気持ちになりかねない。これが燃えつき現象(バーンアウト)と言われていることであるが、このような子供を出さないように、指導者は指導方法を考えていかなければならないと考える。

 子供のスポーツに関わる全ての大人たちには、子供のスポーツを遊びと捉え、スポーツの楽しさを伝えることに重点を置くことが望まれる。そして、子供の意欲が、大人によって消されることがないように望んでいる。(中村 崇)

 

 

本文は、中村 崇(1992)幼少年期のスポーツに対する子どもの意欲と親の期待について.上越教育大学.pp.63-66の一部を加筆修正し掲載

幼少年期のスポーツに対する子供の意欲と親の期待について②

 30数年前、学生だったときに書いた論文を読み返してみました。当時の私が課題だと思っていた事柄は、子供を主語にする教育論、伴走者としての教師の在り方、非認知能力の重要性等が教育的課題として認識される社会の潮流により好転している部分もあれば、未だ課題のままの点もあるなという感想です。

 22歳の私が書いた論文の一部を3回に分けて掲載します。本文はその2回目です。言葉や表現等、文言の調整は行いました。

 

 

 親に望むことは、子供にプレッシャーを与えないようにすることである。他の子供と比べたり、試合などで勝つことを強く望んだり、過度な応援をしたりすることなどは、子供の心に大きなプレッシャーを与えることになる。本来のプレーが歪めらる可能性もある。さらに、子供がスポーツを楽しむことを妨げるとも考えられる。もっと自由に、大きな心で見守ってほしい。そして、時には一緒にスポーツを楽しむことも大切ではないだろうか。今までとは違った子供の表情を見ることができるのかもしれない。

 スポーツ指導に名を借りて指導者にしつけを望む親がいる。これは見当違いである。指導者も道徳的に反する行動には厳しく対応する必要はあるだろうが、練習や試合の指導を通して根性を付けてもらいたいとか、厳しく指導し忍耐力を付けてほしいといったことを望む親がいる。根性、忍耐力といったものが、もしスポーツで養うことができるのであれば、それは子供が自分自身でその力を発見し、育てていくものだと考える。他人により強要されて付けた力など、本質的な力ではないだろう。人間として成長する中で様々な経験をし、様々な状況に立たされたときに、自分でそれを乗り越えていく上でそれらの力が育てられ、発揮されていくのだろう。親はもっと子供の自由な活動を認め、成長を待ち、そして見守っていくことが必要であり大切なのだろう。(中村 崇)

 

本文は、中村 崇(1992)幼少年期のスポーツに対する子どもの意欲と親の期待について.上越教育大学.pp.63-66の一部を加筆修正し掲載

幼少年期のスポーツに対する子供の意欲と親の期待について①

 30数年前、学生だったときに書いた論文を読み返してみました。当時の私が課題だと思っていた事柄は、子供を主語にする教育論、伴走者としての教師の在り方、非認知能力の重要性等が教育的課題として認識される社会の潮流により好転している部分もあれば、未だ課題のままの点もあるなという感想です。

 22歳の私が書いた論文の一部を3回に分けて掲載します。本文はその1回目です。言葉や表現等、文言の調整は行いました。

 

 

 子供が自主的にスポーツをはじめようとする要因の中に、あこがれの選手の存在がある。他の要因としても、そのきっかけが保護者や兄姉であったり、学校や幼稚園等の教師の影響であったり、アニメやCMであったりもするだろう。このように考えると、根底にあるものは「あこがれ」があると言えるのではないか。換言すれば、視覚的・聴覚的刺激を手掛かりにイメージを形成する。それにより興味が起こり、意欲へと移っていく。その意欲が環境を媒介に動機づけられ、行動へと子供を導く。その興味が向けられたものがスポーツであれば、スポーツ的な遊びへと発展していくであろう。

 事例を挙げる。幼稚園教育実習中の出来事である。“お楽しみ会”のときに私がサッカーのユニフォームを着て、頭や腿、肩、足の甲などを使ってのボールつき(ボールリフティング)を子供たちの前でやってみた。すると翌週(“お楽しみ会”は土曜日だった)には、子供の中からサッカー的な遊びが出てきた。遊戯室の対面の壁をゴールと見立てての簡単なゲームではあったが、子供たちの顔は喜びに満ちていた。そして約一ヶ月後の作品展では、サッカーをしているところの紙版画を作った子供が二人いた。

 本来、子供のスポーツとは、遊びとしての活動であるべきだろう。しかし現代では社会構造の変化に伴い、遊びとしてのスポーツが発生する広場や空き地が減少し、その代役として組織的なスポーツクラブが求められている。この現象は、現状から考えれば仕方ないと考えられるが、その中で大切なのは、大人、特に子供の親と指導者が、子供のことをどのくらい理解しスポーツ活動に関わっていくかということであろう。(中村 崇)

 

本文は、中村 崇(1992)幼少年期のスポーツに対する子どもの意欲と親の期待について.上越教育大学.pp.63-66の一部を加筆修正し掲載

てんぷら

 葉っぱのてんぷらレシピを記します。

 これは、以前お世話になった保育者の方から教えていただいたものです。

 

 材 料:新鮮な葉(雑草の大きめな葉)・水・おがくず

 作り方:①葉を水につけて、濡らします。

     ②濡らした葉におがくずをまぶします。

     ③皿に盛りつけます。

 

 園におがくずは常時ないですよね。子供たちと一緒に遊ぶ中で、おがくずの代わりに使ってみたものは、栗の花や枯れた葉をすり鉢で細かくしたものです。

子供たちと「代替食材」を探すのもおもしろいでしょうね。(中村 崇)

「の」の ひみつ

 Googleマップを見ていたら、?!!「の」があるではないですか。おもしろい、なんだろう、という思いに駆られ調べてみました。あるお宅の庭にある道でした。この心が躍る体験は、貴重な「溶解体験」(以前このコラムに書きました)になりました。

 今回は、「の」のひみつを探っていきたいと思います。なんの「の」かと言いますと、「発達段階」と「発達の段階」、「発達課題」と「発達の課題」、「環境構成」と「環境の構成」の「の」です。「の」が付くか否かで、それぞれが表す文言に違いはあるのでしょうか。

 「の」が付くときは、例えば「環境」と「構成」を分けて捉えてほしいときなのだと考えます。すなわち、「発達段階」、「発達課題」、「環境構成」が従来もっている意味とは違う意味を表現したいのだろうと考えます。

 「発達段階」とは、多くの人に共通して見られる発達の道筋であると言われています。一方、「発達の段階」とは、人生という道の過程での変容としての「発達」における、その人またはその人たちの今の位置という意味での「段階」と考えられます。

 「発達課題」とは、人間が健全で幸福な発達をとげるために各発達段階で達成しておかなければならない課題であり、次の発達段階にスムーズに移行するために、それぞれの発達段階で習得しておくべき課題があると言われています。一方、「発達の課題」とは、「発達」という人の生きる過程の中で、その人が乗り越えることで新しい世界が開ける意味での「課題」と考えられます。

 「環境構成」とは、保育者が望んでいる遊びや活動を引き出すための材料や用具を用意し子供の活動を誘発するという考え方を基にした物的環境を準備・配置することと言われています。一方、「環境の構成」とは、子供の興味・関心に即した「環境」(もの、人、自然・社会現象、時間、空間、雰囲気など)を相互に関連させながら、その子供にとって必要な体験を積み重ねていける状況づくりを「構成」と捉え理解することができます。

 「の」のひみつを探る話はこれでおしまいです。様々な考え方はありますが、私なりの考えをまとめてみました。この思考過程は、私にとっておもしろくて刺激的な体験でした。(中村 崇)

 

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初出:ぐんしよう №203 (一社)群馬県私立幼稚園・認定こども園協会